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一般質問 高見のり子議員 (2月21日)

【概要】東日本大震災から7年。語り継ぐことの意味

 

〇高見のり子議員

日本共産党仙台市議団の高見のり子です。地震と津波によって甚大な被害にがあった東日本大震災からもうすぐ7年を迎えます。仙台東部沿岸地域の復興と被災者支援について伺います。

仙台市は5年でいち早く復興計画を終了しました。しかし、復興が終わったわけではありません。これまでの取り組みを振り返り、やり残していることはないか、被災者支援はどうだったか、震災直後にはできなかったがこれからでもやれること、やるべきことを考える必要があります。東日本大震災で亡くなった方の約9割が溺死であり、津波の被害といわれています。今津波を体験した方がこれまで語ることのできなかった思いを語り始めています。先日、荒浜でお話を伺った方は「実際に避難や被害の状況がどうだったのかをこれからの減災・防災のために話すことが自分の使命だ」と話されていました。被害の実相を体験したカラカラ聞き取り、誰が、どこで、どうして亡くなったか、あるいはどうやって助かったかを検証して記録しておく必要があります。そしてこのことを伝承することが大切です。いかがでしょうか。伺います。

蒲生では津波によって住民含めて約300名もの方が亡くなりました。うち約150名は住民以外の働いていた方だと言われています。そういった方の被害の実相はほとんどわかっていません。震災当日、友人と一緒に車で蒲生に向かって、津波に遭って流されたという娘さんを持つ加美町に住むご夫婦が、7年間、月命日に蒲生に通い続けています。娘さんは今でも行方不明です。蒲生では区画整理事業が進められ、娘さんが車ごと流されたという場所は跡形もなくなっています。蒲生には「震災の記憶を後世に伝える」震災メモリアルプロジェクトとして2016年8月にモニュメントが設置されました。市の土地に仙台市が作ったモニュメントです。このご遺族は蒲生の慰霊碑に娘さんの名前を刻んでほしいと願っています。住民以外で津波の犠牲になったご遺族の希望があれば、もう一つ慰霊碑を作って、亡くなった方の名前の刻印を可能にすべきです。そうやって刻むことが蒲生の被害の実相を後世に伝えることになります。いかがでしょうか。伺います。

蒲生北部区画整理事業は換地の指定がほぼ終了し、市有地の利活用のための第2回目の事業者募集も今年の2月から始まっています。事業者向けの蒲生北部地区の案内パンフレットには「抜群の立地特性を誇る新しいビジネスゾーン 蒲生北部地区」という言葉が躍っています。一方津波の被害を伝える文言はありません。住民合意のないまま、被災者を切り捨てて区画整理を進めること自体問題でした。苦しみの中で苦渋の決断をして移転した住民がいたこと、苦難の中で現地に残ることを決断した住民が存在することを忘れてはなりません。
蒲生には、大和大明神、27代も続いてきた末永家の松を初めとする生き残った松たち、お地蔵様、高砂神社など、貴重な震災遺構と呼ぶべきものがたくさん残っています。私は、それらの保存を何度も求めてきました。
また、津波で息子さんお二人を亡くされ、慰霊のために自宅跡に観音様を建立し、舟要の館という小屋を建てて、毎日通って語り部を続けている方もいます。舟要の館は、蒲生に集う元住民の方たちのよりどころであり、さまざまなイベントの拠点としても重要な役割を果たしています。今後、河川堤防の工事のため、蒲生地区内に移転、再建されることになりました。
こんなふうに、個人で震災の伝承に頑張ってこられた皆さんに御協力をいただきながら、震災遺構と蒲生のモニュメントをつなぐ震災遺構ロードをつくって、案内板の整備やパンフレットの作成を行うべきです。伺います。

蒲生は、伊達政宗の時代から400年以上の歴史を有する地域です。貞山堀で舟が往来し、米の道として栄えた歴史がありました。2016年には、貞山堀、舟だまり、お蔵跡の遺跡の発掘調査が行われ、その歴史的価値について報告が出されています。貞山堀の護岸石積み、お蔵跡からの100点を超える木簡の出土など、貴重な資料となりました。
震災後、地元高校生が蒲生の自然と歴史を生かした防災公園をつくる復興計画を提案し、社会的注目を集めました。昨年は、元住民から、「一帯を埋蔵文化財のまま保全し、将来公園化するなどして、後世に郷土の歴史遺産を継承してほしい」と要望書が提出されています。市は、土地は売却せずに住民の要望に応えるべきです。いかがですか、伺います。

蒲生日和山は、震災前は標高6・05mの山でしたが、震災後、標高3mの名実ともに日本一低い山となりました。高砂市民センターと元住民らで結成された中野ふるさとYAMA学校の皆さんが、震災後、2014年7月に山開きを行い、その後、毎年開催され、昨年は200名もの方が参加しました。昨年12月には、「ふるさと蒲生日本一の日和山」、のパンフレットが完成し、ことしの1月14日にメモリアル交流館で、このパンフレットのお披露目も兼ねて、「山の低さも愛情も日本一」と題するトークイベントが行われました。
日和山は、仙台市民が野鳥観察や初日の出を見る場所として親しまれ、今なお地域のシンボルです。今後、河川堤防の建設によって堤防を越えた海側に位置することになり、管理は宮城県に移行される予定です。県に移行されても、市は、蒲生日和山を中心に行われるさまざまなイベントをこれからも支援するべきです。いかがでしょうか、伺います。

先日、舟要の館において、蒲生を守る会と蒲生のまちづくりを考える会の共催で、「ウミガメの環境学習会」が行われました。これは、蒲生で打ち上げられたウミガメの死骸が標本化されたことを受けて、東京大学大気海洋研究所の研究者が講師で開かれたものです。参加した子供たちは、貴重なお話を聞いて、「亀はどのくらいの速さで泳ぐのか」、「亀は何回産卵するのか」など、鋭い質問をしていました。とても大切な環境教育と言えます。
震災前、蒲生干潟においては、自然再生推進法を根拠に「蒲生干潟自然再生協議会」が発足し、自然再生事業が進められていました。自然再生事業の目的は、環境保全活動、環境教育を通して生きた自然に接することができる場、多様な主体が交流する場、情報を共有する場を創出することです。「蒲生干潟自然再生協議会」は、東日本大震災以降、これまで一度も開かれていません。再生協議会は、宮城県、東北地方環境事務所、そして仙台市がそれぞれ三つの部会の事務局として会の運営と活動を支える仕組みとなっています。早急に再開する必要があります。
震災によって干潟は壊滅的な被害を受けましたが、今では鳥や生き物たちの姿は数多く見られるようになり、干潟の生態系は徐々に回復しています。震災後の干潟の移り変わりの様子をモニタリングし、客観的な資料として残していく作業は、学術的にも大変重要であり、後世に残していくべき財産です。仙台市は、環境教育や市民参加の場として、蒲生干潟の積極的な活用施策を検討するべきだと考えますが、いかがでしょうか、伺います。

美術作家の若者が荒浜と蒲生に廃止となったバス停のオブジェをつくったことがきっかけで、「3.11オモイデアーカイブ」による、「3.11オモイデツアー、きょうは市バスに乗って、荒浜、蒲生へ」、が実現し、市バスが荒浜まで2回、蒲生に1回走りました。元住民の方や被災地の復興を支援する方々に喜びをもって迎えられました。
ところが、仙台市交通局の貸し切りバスが休止されるため、このイベントは存続が危ぶまれています。こうした取り組みは、震災を風化させない大事な取り組みです。市営バスでなければ成り立たないものですから、何らかの対応をすべきです。いかがでしょうか、伺います。

仙台東部沿岸地域は海岸公園がつくられ、野球やサッカー、パークゴルフを楽しむ市民が利用しています。跡地利活用によって、さらに人が集まります。深沼海岸の海水浴場の再開も望まれています。荒浜小学校まで走っている市バスを深沼へ延長すべきです。
また、現在、蒲生行きの路線は、中野新町バス停から先は廃止となっています。蒲生北部は業務地区として、そこで働く人たちが利用する交通手段が必要になるはずです。蒲生干潟や蒲生日和山を訪れる市民のためにも、蒲生行きの市バスが必要です。
今後の復興の進捗状況に合わせ、仙台東部沿岸地域のバス運行の充実を検討すべきですが、いかがお考えでしょうか。復興と公共交通を担当する都市整備局長に伺います。

蒲生には、これから多くの人が働いたり訪ねたりします。何よりも、そこには住み続けている住民がいます。ところが、津波被害に備え、避難の丘や津波避難タワーなど、緊急の際の避難場所がありません。必要だと思いますが、お考えを伺います。

ここまで述べてきたように、震災以降、たくさんの個人や団体が震災を語り継ぎ、記憶を継承するために取り組んでこられました。そういったことがきちんと蓄積され、生かされることが大切です。
風化する最も大きい原因は、「語る機会の喪失」だと言われています。被災者の方たちと震災の記録づくりに取り組んでいる方は、今後、震災を体験しない市民がふえていく中で、学者や研究者だけでなく、ハードルを低くして108万市民がみずから3・11にかかわっていける仕組みが重要だと話しています。
3.11メモリアル交流館はもちろん、市民センター、NPO、個人、町内会等、各地域の団体で取り組まれている震災関連の多種多様なイベントや事業をこれまで以上に支援することを求めます。そういった取り組みを絶えず繰り返し、これから何十年先までも続いていくことこそが、震災の経験や教訓を後世に伝えることになると考えますが、御認識を伺います。

次に、災害危険区域に自宅を修繕し、住宅再建をされた被災者への支援について伺います。
市は、かさ上げ道路の海側と蒲生北部を災害危険区域としました。そして、災害危険区域以外の津波浸水被害を受けた区域には、市の独自支援として、住宅の現地再建に対し支援を行ってきました。利子補給や直接補助で上限125万円の支援です。また、ことし3月に申請が締め切られる津波被災者再建支援金は、失った家財などへの支援として、一世帯一律20万円が支給されます。こういった市の独自支援や追加支援は、被災者に大変喜ばれました。
ところが、市は、災害危険区域に居住する十世帯の住民には、それらの支援を全て対象外としました。災害危険区域は住宅の新築は禁止されていますが、修繕して住むことは可能であり、仙台市も認めてきたにもかかわらずです。甚大な被害を受けた同じ津波被災者なのに、1円の支援がないのは余りにもひどい差別です。住民が「我々を仙台市民と認めていない」と怒るのは当然です。
先日視察した山元町では、災害危険区域で修繕し住宅再建している56世帯に対し、これまで支援が何もなかったからと「生活支援金補助」をつくり、一律180万円の町の独自支援を行ってきました。この町の方針はあくまでも「移転」ですが、「家財の被災に対する支援は災害危険区域であっても必要なので判断した」と伺ってきました。
また、東松島市も、同様に災害危険区域に住む約200名の被災者に、修繕では上限150万円、かさ上げや鉄筋コンクリートなどの条件つき新築には上限450万円の独自支援を行っています。こちらも被災者の要望と実態に合わせたものです。
「津波で被災し、仙台市が住んでもいいと言ったので、借金をして修繕し、やっとの思いで再建した家を離れたくない」と、蒲生の市民は訴えています。被災者に寄り添うというのであれば、山元町や東松島市のように、被災者を差別せずに支援するのが行政の仕事だと思いますが、市長のお考えを伺います。

最後に、「災害危険区域」という呼び名の変更を提案します。
先日、東松島市と山元町からお話を伺ってきました。東松島市は、「災害危険区域」を震災直後から「津波防災区域」と呼びました。山元町は、東松島市に倣って、2017年4月から、条例改定を行って災害危険区域を「津波防災区域」と名称を変更しました。理由を伺ったところ、どちらの自治体も、災害というと「地震」や「風水害」など全般的になるので、「津波」と限定することで津波が来る土地であることをわかりやすくし、注意喚起するためとのことでした。法律上、名称変更に問題がないことも確認されています。
仙台東部沿岸地域は、海岸公園が整備され、跡地利用のアイデアが募集されて、人を呼び込む計画です。さらに、蒲生は、事業所で働く方たちがたくさん集まる地域になります。仙台市においては5種類の災害危険区域があるとのことですが、震災を経験しない人にも後世にわたってわかりやすいように、それぞれ、例えば「津波防災区域」などのように呼び名を変えるべきですが、いかがでしょうか。大事な問題なので市長に伺って、第一問といたします。

御清聴ありがとうございました。

 

◯市長(郡和子)

ただいまの高見のり子議員の御質問にお答えを申し上げます。
震災関連のイベントや事業に対する支援のあり方に関するお尋ねについてお答えをいたします。
本市には、震災の記憶を未来へと伝えていく、こうした責務があるというふうに思っています。そのためには、108万市民の皆様と震災に係る記憶を共有しながら、息の長い取り組みを継続していくこと、これは重要であると、そう思っております。
現在も、地域団体やNPO、マスコミ、研究機関などを通じて、さまざまな震災伝承活動が行われております。今後、このような取り組みとメモリアル施設との連携をさらに強めていくとともに、仙台防災未来フォーラムなどを通じて国内外に震災の教訓を発表する場を創出するなど、みずからの震災体験を語り継ぐということ、それからまた、記憶や経験を未来へとしっかりと発信する活動への支援、このあり方について検討を深めてまいりたいと、そういうふうに思います。
そのほかの御質問につきましては、交通事業管理者並びに関係局長から御答弁を申し上げます。
私からは以上でございます。

 

◯危機監理監(佐々木英夫)

私からは、蒲生北部地区の津波避難場所に関する御質問にお答えいたします。
本市では、これまで仙台港周辺の津波避難対策といたしまして、民間事業者等と協定締結による避難施設の確保に努めてきており、蒲生北部地区の避難場所につきましては、民間事業者3社と協定を締結しているところでございます。
また、蒲生北部地区の市有地の利活用を進めている事業者に対しましては、当該地区における津波の危険性についてお知らせするとともに、津波避難施設の確保を呼びかけるなど、防災・減災への配慮を促しているところでございます。
今後、事業者の津波避難計画を確認しながら、同地区の避難計画を検討いたしますとともに、引き続き、民間事業者等の協力をいただきながら、協定締結による避難施設の確保にも努めてまいりたいと考えております。
私からは以上でございます。

 

◯まちづくり政策局長(大槻文博)

私からは、まず、被災体験の記録、伝承に関するお尋ねにお答えいたします。
震災を市民共通の記憶として継承していく上で、震災時の経験を証言などの形で記録し伝えていくことは重要なことだと認識しております。これまで、3がつ11にちをわすれないためにセンターや市民協働プロジェクトである伝える学校、市民センターによる証言記録などを通じて、被災体験の記録の蓄積とその伝承に努めてまいりました。
震災を経験していない世代がふえていく中で、記録や収集の手法、そして活用のあり方などについても検討が必要と考えておりまして、中心部メモリアル拠点との連携、活用手法なども見据えながら、取り組みを進めてまいります。

次に、震災で亡くなられた方の慰霊碑についてのお尋ねでございます。
沿岸部における慰霊の場として、本市では地域ごとのモニュメントを整備してまいりました。その設置に当たりましては、犠牲となられた方のお名前の扱いも含めて、地域の皆様との協議を重ねながら進めてきたところでございます。
したがいまして、今後、中心部のメモリアル拠点整備の検討を進めていく中で、これにあわせて、震災犠牲者への慰霊のあり方についても検討してまいりたいと存じます。

次に、震災遺構の整備等に関するお尋ねでございます。
本市沿岸部には、貞山運河や干潟、神社などに見られますように、震災以前から地域それぞれに特色のある歴史や自然、そして人々の豊かな暮らしがございました。
本市では、震災後の現地を実際に訪れ、体験することで、震災の記憶ととともに地域の歴史や暮らしを感じていただけるよう、メモリアル交流館において企画展示、情報発信等を実施しております。この交流館では、昨年度作成した沿岸マップの改訂や沿岸部回遊ルートの設定を検討しており、今後、地域の皆様の御協力もいただきながら、こうした面的な取り組みも進めてまいりたいと存じます。
以上です。

 

◯環境局長(小林仁)

蒲生干潟に関するお尋ねについてお答えいたします。
蒲生干潟は、多様な生き物が生息し多くの渡り鳥が飛来する、本市の貴重な環境資源と認識しております。
干潟を活用した環境教育につきましては、自然再生推進法に基づき、県や国などとともに設置した蒲生干潟自然再生協議会において推進することとなっております。協議会の活動は東日本大震災により休止しておりますが、平成26年度以降、県が主体となって関係者との意見交換を実施しており、本市としても、その動向を引き続き注視してまいりたいと考えております。
以上でございます。

 

◯経済局長(石川浩史)

私からは、蒲生北部地区の埋蔵文化財包蔵地を含む市有地の利活用についてお答えいたします。
蒲生北部地区につきましては、新たな成長産業の集積を目指す地区と位置づけ、市有地の利活用を希望する事業者の募集を行っておりますが、埋蔵文化財包蔵地を含む街区につきましては、文化財保全の観点から募集対象から外しております。
本街区につきましては、文化財保全を第一に考えるとともに、本市経済の活性化にも資するよう、利活用の方法について今後検討してまいる考えでございます。
以上でございます。

 

◯都市整備局長(鈴木三津也)

私からは、都市整備局にかかわります3点のお尋ねにお答えをいたします。
まず初めに、東部沿岸地域への交通アクセスについてでございます。
東部沿岸地域の防災集団移転跡地につきましては、新たな都市機能の集積やにぎわいの創出を目指し、現在、土地区画整理事業や跡地利活用事業に取り組んでおるところでございます。
これらの事業を進める上で、交通アクセスの確保は重要な課題の一つと認識しております。具体的な土地利用の進展に合わせ、事業を実施する民間事業者との協議を行うなど、必要なアクセス手段の確保に向けて取り組んでまいりたいと考えております。

次に、災害危険区域で現地再建をされた方々への支援についてでございます。
蒲生北部地区を含みます東部沿岸部の災害危険区域は、さまざまな津波防御施設を整備してもなお、津波による危険性が著しく高い地域であり、災害危険区域外での住まいの再建を促進することが、震災復興計画の基本的な考え方でございます。津波被災者再建支援制度などの本市独自の支援制度も、災害危険区域外に住宅を再建される方々を対象として創設いたしました。
したがいまして、住宅を修繕し、災害危険区域内に引き続き居住される方々につきましては、これらの支援制度の対象とすることは考えていないところでございます。

最後に、災害危険区域の呼称についてでございます。
本市の災害危険区域は、津波、高潮等による危険の著しい区域を災害危険区域として指定することができるとの建築基準法の規定に基づき、災害危険区域条例により指定をしているものでございます。条例におきましては、急傾斜地の崩壊、地すべりによる危険の著しい区域などをあわせて災害危険区域として指定しております。現行の条例の規定ぶりにつきましては、法の趣旨にかなうものであり、あえて改正すべき必要があるとまでは考えておりません。
一方、津波による危険が特に著しい区域として指定をした地域につきまして、その経緯や津波防災の重要性などを震災を経験していない方々にも伝えていくことは、法令上の名称にかかわらず、重要な課題と認識しております。
関係部局と連携し、さらに、ただいま選定を進めております集団移転跡地利活用事業者など、市民や事業者の皆様の御協力もいただきながら、次世代への継承も含めまして、しっかりと取り組んでまいりたいと考えております。
以上でございます。

 

◯宮城野区長(岡崎宇紹)

蒲生地区の日和山に関する御質問にお答えいたします。
これまで市民センターにおきまして、地域の方々が交流する場を提供する講座として、ジオラマづくりや日和山の山開きなどを行い、地域への思いや人と人とのつながりを深めてまいりました。
今年度、受講生の方々が自主サークルとして中野ふるさとYAMA学校を結成し、日和山を紹介するパンフレットの企画や震災関連イベントで体験を語る活動などを行っており、今後も引き続きこのような取り組みを支援してまいりたいと考えております。
以上でございます。

 

◯交通事業管理者(西城正美)

震災を風化させない取り組み、3.11オモイデツアーへの対応についてお答えいたします。
この取り組みにつきましては、深沼地区と蒲生地区において実施されておりまして、震災前の原風景を懐かしむ、被災者の心に寄り添った取り組みと認識しております。
市バスは乗務員確保が大きな課題であり、そのため、乗り合いバスの安定的な運行に支障が生じないよう、次年度より貸し切りバス事業を休止することといたしましたことから、貸し切り事業によりお引き受けすることは困難ではございますが、今後、この取り組みに対しましてどのような御協力ができるのか、検討してまいりたいと考えております。
以上でございます。

 

──再質問──

◯高見のり子議員

御答弁いただきました。再質問させていただきます。

私、大事な質問なので市長にお聞きしたいと言った点が何点かあったんですけれども、その中の一つで、災害危険区域に今居住をされている被災者の方への支援の問題です。
私がお話を伺ってまいりました山元町と東松島市は、災害危険区域で自宅を修繕して再建をされた方たちに対して、独自の支援を行っているわけです。ですから、仙台市がやってもいいわけですよね。それをやってこなかったというのが、実はこの7年間の仙台市の被災者支援だったということだと思うんです。
それで、やはりこれは改めていただかなければならないと思うんです。被災者に寄り添った復興、そういうふうに言うのであれば、やはり被災者の生活再建を支援して、そして被災者を差別しないと。どういった形で再建をするかは、それぞれの皆さんがやっぱり決めることでありますから、差別のない、この災害危険区域の10世帯への支援を対象にしないということを改めていただきたいと思いますので、これは市長に御答弁をいただきたいと思います。

それから、もう一つ、災害危険区域の呼び名を変える問題なんですけれども、実はこれは大変重要な問題であると思っています。これから人を跡地利用で呼び寄せようという、そういう施策を持っているわけでありますから、そこを危険だというのはやっぱり前向きでないと思います。ですから、私は前向きな提案として、この災害危険区域を津波防災区域にすべきじゃないかというふうに提案をし、お聞きをしたわけでありますので、この2点、ぜひ市長にお答えをいただきたいと思います。

 

◯市長(郡和子)

現地再建された被災者の方に対する支援の御質問ですけれども、基本的には仙台市の独自支援というのは、先ほど都市整備局長が答弁申し上げたとおりの考え方だというふうに私自身も思っているところです。
ただ、現地にお住まいの方々に対して、引き続き、日常生活を営んでいく上での御懸念などについて、いろいろと御相談に応じていく、そして、その上で可能な支援というのがあれば、それについては努めていきたいというふうに思うところであります。
それから、災害危険区域の呼び名についてでありますけれども、これは、津波による危険が特に著しい区域として指定をした地域については、やはりその経緯や津波が来るのだという防災上の重要性を経験していない方にも伝えていくという、そういう責務はあるわけであります。
先ほど都市整備局長、答弁申し上げましたけれども、現行の条例の規定を踏まえて、津波による危険が特に著しい区域というふうなことで指定をしたわけでございます。その津波の危険の区域であるという、その重要性を広く後世に伝えていくというためにも、名称の変更というのが、防災区域ということでいいのかどうかということは、私自身、思います。現時点で名称の変更まで必要だという、そういう認識には私自身は至っておりません。
以上でございます。

 

◯高見のり子議員

名称については、今、そういう認識、変えるという認識には至っていないということでしたけれども、そこは、先ほどもお話しされていますように津波の被害があったんだよということをわかりやすくするために、津波という名前を入れたらいいんではないかなということの提案ですので、ぜひ、現在は至っていないということでありますが、ぜひとも検討をしていただきたいというふうに思いますので、もう一度お願いいたします。
それから、現地再建の被災者支援でありますけれども、これまで現地再建の方に独自支援、何も行っていないんですね。ゼロなんですね。そういった点では、どのように思っていらっしゃるかというのも、これは聞きませんが、そういった状況だということを重ねてお話ししておきたいと思います。
一点だけお願いいたします。

 

◯市長(郡和子)

お答え申し上げます。
私自身は、あの震災を経て、やはりこれは名称の問題だけにかかわることではないんですね。その後の土地の利活用の問題にも深くかかわってくる話でありまして、ここのところは、やはり私の申し上げた、名称を、だから変えていいというふうにはならない理由の大きな一つの要因であるということをぜひ御理解いただきたいと思うんです。
ということで、申しわけありませんけれども、そういう意味で名称を変えるということには判断はいたしません。
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